加子母村と山林の歴史
 御嶽山山麓の木曽・裏木曽はヒノキの大森林地帯で、古くから伐採し利用されてきたと思われます。 天受6年(西暦1380年)外宮の遷宮材が美濃山より出材した記録がありますが、この美濃山というの は木曽山のことだといわれています。
 加子母村から伐採された記録で古いものは文安5年(1448年) の京都の南禅寺の大火の復興用材の台帳に「みのの国つけち山、いでのこうぢ山(加子母村)」 と記されています。

濃州恵那郡加子母ヨリ檜大材伐出谷川下之図(神宮文庫所蔵)

 天保九年木曽大材出小路伐出之図巻
天保9年(1838年)江戸城西之丸再建用材を
美濃国加子母村出小路山より伐採した時の
ようすを描いたもの。(名古屋市博物館所蔵)
 慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、徳川幕府となり、元和元年(西暦1615年) に木曽33箇村と裏木曽3箇村(川上村・付知村・加子母村)が、尾張藩領となり、各地の城郭・城下 町の建築用材として大量に木が伐採され、寛文5年(1665年)には木が切り尽され荒廃した山が目立っ てきたため、尾張藩による林政改革が行われ、木材の伐採はもちろん、住民の立ち入りも禁止する 「留山」「巣山」が設けられ、宝永5年(1708年)には、「ヒノキ」「サワラ」「アスナロ」「コウヤ マキ」翌年に「ネズコ」の五木を停止木として尾張藩の御用材以外の伐採が禁止し、「檜一本首一つ」 と言い、盗伐、背伐などを犯した者は厳罰に処せられました。
 享保9年(1724年)には、これまで田畑の少ないこの地方では木年貢であったが廃止され、米納へ 改められました。
 現在の原生的な木曽ヒノキの美林が実は、この時代に乱伐された後、厳しい森林保護政策により育 ったもので、現在残っている木曽ヒノキの樹齢が400〜200年ぐらいのものがほとんどで400年を超すも のはめったにないことからも伺えます。ヒノキの樹命はもっと長く、加子母村役場玄関にある大ヒノキ の輪切りの樹齢は925年ですので1000年ぐらいは生きられるのでしょう。
 伐採されたあと笹の密生する山で、このヒノキ林がどのようできたかは、いろいろな説があり、 「植林された」「山火事のあと一斉に育った」「笹は50〜60年に一度一斉に開花したあと枯れるとい われ、その際に一斉に育った」「切り株の上や周囲に落ちた種が笹に邪魔されずに育った」切り株の 上に生えて育ったと思われる根上がりの木曽ヒノキもよく見かけます。

出の小路のヒノキ・サワラ合体木も切り株の上に偶然、落ちたヒノキとサワラの種が同じように育っ て、くっついたのではないかと思われます。
 根上がりの部分が切り株だとすると、伐採の位置が、高すぎるように思えますが、昔は斧で切った ため場所の悪い所では、足場を組んだりしたので高くなったのではないでしょうか。


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